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受験勉強はコミットメント力を図る物差しになっていく

自分が弁護士になった当初を振り返ると、弁護士の仕事はかなり効率的にできるようになったと思う。昔からマニュアルやひな形の類はあったものの、それらはより洗練され、使いやすくなった。

 

ロースクールの指導教授は「自分が学生の頃は、一つのテーマについて判例検索するのに、図書館に何日もこもりっきりだった。それが今や、たった数時間で、カフェでもリビングでも、同じ密度のリサーチができるようになっている。」と言っていた。ちょうど自分が留学しているころ、レクシスがAIを使った事例のレコメンドを出すようになり、自分のように乏しい語学力の留学生でも、正しい事例に当たることはそう難しくない時代になってきたことを実感していた。

 

 

そうすると、資格・ライセンスの類(もしくは有名大卒の肩書など)は、ものすごくふわふわとした軽いものになってしまうのではないか。そう思われる方も多くなると思うし、自分も確実にそうなると思う。立場上、大学生や新卒社会人の方と話すこともある。彼らのAI(や成熟社会が醸す閉塞感)に対する厭世観は半端ない。ある意味自分も共感するところがあって、長い時間をかけて積んでいったものが何の役にも立たなくなる日が来るんじゃないかという恐怖感をいつも持っている。

 

じゃあ何をモチベーションにするのかと言うと、自分の場合は衣食住より一段上の生存本能じゃないかと思う。こうやってブログの文章を書いている間も(読者の方はこの記事を読んでいる間も)、寿命は刻刻と減り続けているのであって、その中で何か爪痕を残さなくてはという焦燥感が自分の中での生存本能である。

 

このブログのテーマでもあるけど、自分は活字フェチであって活字に愛された男である。大した自慢にもならないけど、司法試験の論文試験はほぼ全科目Aで、総合順位は一割以内に入っていた。Toefl受けて留学したのも、ついでに中国語を勉強したのも、何となくこの部分は譲れないというアイデンティティから来ていたりする。

 

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人間、こだわりをなくしたらすごくつまらない人間になってしまうような気がしていて、それがその人の信頼に直結していたりするのではないかと思う。試験の結果は、結局は努力の量で決まる(と思う。たまに見かける振り切れた天才を除いては。)。要するに自分が何を選択し、その選択したものに対してどれだけこだわり抜いたのか。それを形にして見せてくれる役割はまだ持っているんじゃないかと思う。その物差しとしての役割がいつまで通用するのかはわからないけど。